るには知る作用があり、そこに知られたものと知るものとが区別される。認識には作用と対象とがある、対象は客観であり、作用は主観に属している。科学はひたすら客観をそのものとして知ることに努力するのである。尤《もっと》も、科学も知るもの、知る作用即ち主観或いは主体について研究するといわれるであろう。けれども科学が知るものについて研究する場合、知るものは対象として、客観として捉えられるのであって、そこに更にこれを知るもの、知る作用がなければならぬ。見られた自己はもはや見る自己ではない。主体はいかにしても客観化し得ぬものである。それは対象的存在でなく作用的存在であり、ラシュリエの言葉を借りると、判断の述語としての存在でなく繋辞としての存在である。主体をそのものとしてどこまでも主体的に見てゆくというのは科学のことでなく、そこに哲学がある。科学が客観的な見方に立つに反して、哲学は主体的な見方に立っている。主体的に知るというのは、対象的に知ることでなく、自覚的に知ることである。そこで翻って主体とか自覚とかの意味を考えてみなければならぬ。
 主体とは働くものである。知るということにおいて、知られたものに対
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