識の内容に関するのでなく、却って知識の在り方に関するのである。同じ内容の知識でも常識と科学とでは在り方が違っている。常識には単に「前科学的」といい得ぬ独自の性質と機能とがある。それをただ科学の前段階、低い程度の科学とのみ見ることは、いわゆる実証哲学もしくは科学主義の抽象的な見方に属している。科学は科学としてよりむしろ技術を通じて常識化されるといわれるであろう。科学は技術化されて日常生活のうちに入るに従って常識のうちに入ってゆく。電燈や電車が作られて電気は常識となり、電気について知らないのは非常識とされるようになる。常識はもと行為の立場における知識であり、科学も技術において現実に行為の立場に移されるからである。常識と科学とが在り方を異にするということは、科学の常識化が不可能であるとか無意味であるとかということではない。科学が常識化されることは、常識の進歩のためにも科学の発達のためにも大切であるが、ただそれには特殊な方法が必要である。科学が常識と異るからといって科学を尊重しないのは非常識であり、他方常識を科学によって残りなく置き換え得ると考えるのも非科学的である。
 科学はしばしば抽象的で
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