あるに対して科学は開いた社会においてある。科学はその本性上人類的普遍的である。科学は時と処を超えて通用する即ち普遍妥当的といわれる知識を求める。そしてそれは個人の自由な精神の活動に俟つのである。科学は、歴史の示すように、民族のうちにおいて個人が自己の自立性を自覚し、独立な人格が現われたところで生れた。それは批判的精神の出現を意味している。個人の自由はさしあたり主観的な肆意《しい》として現われるであろう。科学はもちろん個人の肆意《しい》に基くのでなく、客観的であることを求めている。客観的とは普遍妥当的ということである。そこに個人の主観的な自由は否定されて、自己のうちにおける普遍的なもの、超個人的なもの、理性と呼ばれるものの自覚がなければならぬ。理性の自覚に基いて人間は真に自由になる。単に個人的な立場はもとより、単に民族的な立場に止まる限り、客観的知識に達することはできぬ。もちろん現実の人間は単に人類的でなく、民族的である。しかしその立場が個人の自覚に即して一旦否定されるのでなければ科学的になることはできぬ。人類的立場が直接的であると考えるのは正しくない、それは否定を経て現われてくるのであ
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