その習慣論は観念聯合の機械的な説明に拠っている。それは意識の不変的な「要素」を考え、要素の機械的な結合から一切の心理現象を説明しようとした。しかるに習慣においては知覚の変化が認められる。我々が親しんだ環境では、物は、この環境に我々が初めて接した場合とは違って知覚される。行為に必要な知覚は練習の最初と最後とで違っている。習慣的になると無意識になるといわれるのも、厳密に考えると、知覚の変化が生ずることである。習慣の仕事は練習の前の階梯の一層容易で一層迅速な反覆に還元されるものではない、それはより高い統一を形成するのである。習慣において寄せ算と引き算の遊戯、成功した経験の増強と誤謬の消去を見る代りに、そこに再編成、新しい綜合、全体の機能の構成を見なければならぬ。習慣もまた創造的である。それは創造的行為と同じ根のものであり、人間的活動の基本的な構造に基いている。尤《もっと》も習慣は他方模倣的である、それは自己が自己を模倣するところから生ずる。習慣は創造的であると同時に模倣的である。経験は行為的に知ることであるが、人間と環境との適応が持続し、行為が習慣的になるに従って、知識も同じように習慣的にな
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