え、自己のうちに訴えられたものとその裁判官であるものとを考えたのも、かような関係を示すものにほかならない。良心的とは道徳的に自覚的であるということである。過去の私、未来の私、否、現在の私も、私はこれを汝としてこれに対することができる。かように自己が自己に、過去現在未来のすべてにおける自己に、これを汝としてこれに対し得るということは、人間存在の超越性に基いている。超越なしには道徳は存しない。自己が自己に、自己を汝として対し得る自覚的存在として人間は人格であり、かような人格にとって他の人間も真に汝であるのである。汝が真に汝として我に対するためには我が真に我でなければならぬ。
 ところで「汝為すべし」という道徳的自覚は、自己が自己に、自己を汝として呼び掛けることであるが、それは同時に逆に、かように呼び掛けるものがむしろ汝であり、自己が汝に呼び掛けるのでなくて、汝から自己が呼び掛けられることである。良心を法廷に譬えたカントにおいても、訴えられたものが自己であって、裁判官は「他の人間」であった。自覚は超越によって可能になるのであり、それは単に自己が自己を意識するということでなく、却って自己が自己
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