あるところの神のひとつの啓示である。すべての主観的な作用が愛によって土台付けられているのみでなく、認識された物そのものもこの愛に応える自己啓示において初めてその完全な存在と価値に達するのである。そこでアウグスティヌスは、例えば植物は人間から見られ、見られることにおいてその特殊的な、自己に閉じ込められた存在からいわば救済されるという傾向性をもっていると語っている。マルブランシュは関心や注意を「魂の自然的な祈り」と呼んだ。この場合にも祈りという言葉は、主観的な人間精神の活動の意味のみでなく、関心と愛をもって見られた対象の自己開示のうちに存する答を一緒に体験することを含んでいる。そこでパスカルは、「愛と理性とは同じものである」、といっている。
 しかるにかように知識の倫理が問題になるのは、そこに求められた知識が、マックス・シェーレルの区別に従えば、救済の知識ないし教養の知識であって、仕事の知識でないためであるといわれるであろう。シェーレルは、コントが人知は神学的段階から形而上学的段階へ、更に実証的段階へと順次に進歩してきたと考えたのに反対し、宗教的・神学的認識(救済の知識)、形而上学的・哲学
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