知識の倫理として要求される筈である。かように意志を制限することが知識の倫理であると考えるところに認識論上の主知主義の特色が認められるであろう。知識の倫理の問題はまた認識の主体が単に表象的・思惟的なものでなく全体の人間であると主張する立場とも差当り無関係である。認識が思惟の作用に属することは争われないにしても、思惟は現実において人間の他のもろもろの心的活動と結び付いて存在することが明かであるとすれば、思惟が完全に働き得るためには、他のもろもろの心的括動が一定の状態におかれることが必要である。それは主知主義者の考える如く他のもろもろの心的活動がすべて鎮静に帰せられねばならぬということに限られない。或る一定の心的活動は抑止されねばならぬにしても、他の一定の心的活動はむしろ活発にされねばならぬと考えることもできる。かようにして我々の心のうちに一定の秩序の生ずることが認識にとって必要であり、徳とはまさにかくの如き心のうちにおける秩序を意味している。また客観主義の立場において、認識することは対象に純粋に身を委ねることであると考えても、主観のかような態度は決して単に投遣りの態度でないことはもちろん、
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