にのみ関わっている。しかるに判断は心理的過程として極めて特色ある構造のものであり、そこでは我々の心の全体が、その理論的機能並びに実践的機能が、最も判明に、最も完全に現われる。判断するというのは、単に表象を結合することでなく、この結合を妥当なもの或いは真として主張することであり、他方否定判断においては、この結合を偽として拒否することである。かようにして判断のうちには種々の内容を一定の関係において思惟する知的契機のみでなく、この関係を肯定もしくは否定する意志的契機が含まれている。意志決定なしには判断は成立せず、従って意志は認識に対して責任があることになる。認識の根柢には「真理への意志」がなければならぬと主張されるのである。
もしかくの如くであるとすれば、認識にもその倫理がなければならぬということは明かである。それは認識論において主知主義をとるか主意主義をとるかということとは差当り無関係である。主知主義のデカルトにおいても、我々が誤謬に陥るのは我々が意志を悟性の明晰判明に理解するもの以外に拡げて判断を下すことから生ずると考えられるのであるから、我々の意志を悟性の範囲内に拘束するということが
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