的基準があるのである。そして知識は有用である故に真理であるのでなく、逆に、真理である故に有用なのである、といわねばならぬであろう。更に既に論じたように、経験にしても単に経験的なものでなく、経験的なものと先験的なものとの統一であり、単に内在的なものでなく、内在的なものと超越的なものとの統一である。純粋に内在的な立場においては行為というものも考えられない、行為は二重の超越によって可能になるということを、我々は繰返し述べてきた。真に自己に内在的なものは超越的なものによって媒介されたものであり、超越的なものによって媒介されたものが真に自己に内在的であるというところに、人間的生はあるのである。しかるに生をただ内在的に見る実用主義にとっては、知識の有用性は単に心理的ないし生物学的意味のものとなり、従って相対主義に陥ってしまう。尤《もっと》も行為の立場においては、知識は何等か実用的なものと考えられねばならぬであろう。実用性を全く無視することは、知識を単に観想の立場において見ることである。真理は生産的なものでなければならぬ。けれども生産的ということは、歴史的に生産的という意味に解されねばならぬ。歴史は
前へ
次へ
全224ページ中161ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
三木 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング