とであるとすれば、存在は観念のほかの何物でもないということになるであろう。バークリの有名な言葉に依ると、「存在するとは知覚されることである」。桜の実はその色、香、味、等の表象複合に過ぎず、その存在は知覚されるということと同じである。「実に物と感覚とは同一のものである」、とさえバークリはいっている。しかるに知覚するのは私の心であるとすれば、この観念論即ち存在を観念と見る立場は、ひとり我のみが存在し、他のものはすべて我の観念に過ぎぬという独我論に終らねばならぬ。バークリがなお自我という心的実体を認めたのに対して、ヒュームは、一歩を進め、バークリが桜の実についていったことは自我についてもいわれ得ると考えた。我々の内的知覚も自我の実体について教えるものでなく、ただその活動、状態、属性を示すのみであり、これらのものをすべて取り去るならば、そこには自我について何物も残らない、自我もまた「観念の束」に過ぎぬ。しかるにかようにして一切が観念であるか観念の複合であるとすれば、この純粋な内在論にとって知識の客観性の基準はないということになるであろう。
経験論は知識の普遍性と必然性を基礎付けることができな
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