いる。しかしながら両者の関係をただ相関的であるというのは不十分である。私自身は私にとってどこまでも環境とは考えられぬもの、反対に私にとって環境であるものはどこまでも私自身とは考えられぬものである。客観からは主観は出てこないし、主観からは客観は出てこない、両者はどこまでも対立的である。人間と環境の関係を主観と客観の関係と看做《みな》すことにはなお種々の注意を要するのである。いま取敢えず次のことを記しておかねばならぬ。
従来の主観・客観の概念は主として知識の立場において形作られている。主観とは見るもの、考えるもの、客観とは見られたもの、考えられたものを意味するのが通例である。そこで主観といえば意識と解される、知るものは意識の作用であるといい得るからである。しかるに人間と環境との関係はもと行為の関係であり、行為の立場においては、働くものは単なる意識でなく身体を具えた人間である。行為は意識の内部におけることでなく、行為するとは却って意識から脱け出ることであり、我々が意識から脱け出るのは身体に依ってである。行為するとは身体をもって自己の外にある存在に働きかけることであるが、自己の外にあるという
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