ることができる。人間は技術をもって環境を支配することによって独立になるのであるが、その技術をも手段に化し得るものとして真に独立である。けれども技術を単に手段と見ることは正しくないであろう。いかなる技術も形のある独立なものを作り出すものとして自己目的的である。一つの技術を手段に化するには他の技術が必要である。下位の技術の目的となるような上位の技術があり、総企画的なものがなければならぬ。技術の目的は、主観的なものと客観的なものとを媒介して統一する技術そのもののうちにあるのであって、主体の真の自律性は単なる超越でなく、技術の中に入りながら技術を超えているという内在的超越でなければならぬ。
 そして自律的といわれる知性も、それ自身技術的であり、固有の道具をもっている。言語とか概念とか数とかは、そのような知性の道具と見られるであろう。知性の道具は物質的なものでなく、観念的ないし象徴的或いは記号的なものである。論理というものも、アリストテレスの論理学が「機関」(オルガノン)と呼ばれ、ベーコンが近世において「新機関」を工夫したように、技術的である。知性は自己自身に道具を具えており、思惟の諸道具は思惟の諸契機にほかならぬ。知性は構成されたものによって所与のものを超える力であるが、知性の機能に属する一般化の作用もかような性質のものである。思惟の技術は本質的に媒介的である。その一般化の作用によって作られる概念は、特殊をその根拠であるところの普遍に媒介することによって作られるのである。思惟の媒介的な本質は、概念から判断、判断から推理と進むに従って、次第に一層明瞭になってくる。知性の自律性は合理性として現われる、合理的とは思惟によって自律的に展開され得ることである。そして知性はカントの意味においてアルヒテクトニッシュである。カントに依ると、アルヒテクトニックとは「体系の技術」であり、知識は一つの理念のもとに、全体と部分の必然的な関係において、建築的な統一にもたらされることによって科学的となるのである。しかしながら存在と抽象的に対立して考えられる思惟の自律性は真の自律性でなく、客観を我が物とすることによって思惟は真に自律的になることができる。知性が技術的であるということも、本来、客観を主観に、主観を客観に媒介するということでなければならぬ。思惟は自己に対立するもの即ち経験に与えられたもの、客
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