よって新しい環境を作りつつ自己を新たにするのである。環境を変化することによって環境に適応するという人間の能動性は知性によって発揮される。知性は人間の行為のより高い形式を可能にするのである。
技術は先ず物質的生産の技術或いは経済的技術を意味している。それが我々の生活にとって基礎的に重要なものであることはいうまでもないであろう。けれども技術の概念をそれにのみ限ることは正しくない。技術というと直ちに物質的生産の技術を考えることは、世界というと直ちに自然界を考えることと同様、近代における自然科学的思惟の圧倒的な支配の影響に依るものであって、偏頗な見方といわねばならぬ。人間の技術があるばかりでなく、「自然の技術」がある。自然も形成的なものとして技術的であり、人間の技術は自然の技術を継ぐということができる。人間の技術にしても、物的技術があるばかりでなく、人格的技術がある。ひとが他の人間を形成してゆく教育の如き場合はもとより、自己自身を、自己の身体をも自己の精神をも、形成してゆく場合にも、技術がある。自然に対する技術があるばかりでなく、社会に対する技術がある。社会の組織を作ることや国家の制度を作ることは技術に属し、政治の如きもすぐれた意味において技術である。人間のあらゆる行為が技術的である。そしてそれは人間がつねに環境においてあることを思うと当然のことであって、技術によって主体と環境という対立したものは媒介され統一されるのである。かようにして種々の技術があるとすれば、アリストテレスが考えた如く、それらの技術のアルヒテクトニックを、その目的・手段の関係における階層構造を考えねばならぬであろう。そこには総企画的なものがなければならず、これは全体の形を作るものとして知性の最高の技術に属している。
ところで本能の立場に止まる限り環境は単に閉じたものである。それが開いたものになるのは知性の立場においてであり、知性によって環境の世界性格は顕わになるのである。知性が環境を客観的に認識することができるというのもそのためであり、そしてそれは知性が自律的であることによって可能である。知性の自律性はまた、自己自身が作り出したものに対してさえ自由であり得るところに認められるであろう。言い換えると、知性は技術を手段に化するのである。知性は技術の上に出ることができる、それは技術の中に入りながら技術を超え
前へ
次へ
全112ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
三木 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング