ければならぬ。次に我々は快楽を求めて快楽を得るのでなく、むしろ一時の快楽を否定することによって、真の快楽に達するというのが普通である。しかもこのように考えることも純粋な快楽説にとっては不可能でなければならぬ。なぜなら快楽説は元来あらゆる超越的なものを認めない内在論であるから、従って快楽説にとっては刹那主義が当然の帰結である。一時の快楽を否定して後の一層永続的な快楽を求めるということは、すでに行為に何等かの超越的な目的を認めることであり、少くとも快楽に性質的な差別を認めることである。更に我々の行為が身体的なものである限り、それが快楽を離れないことは当然であると考えられるけれども、身体というものも物体とは異り、どこまでも主体的なものである。我々の身体もまた超越的意味をもっている。人間が超越的であるのは単にいわゆる精神においてでなく、却ってその全体の存在においてである。人間の感性はどこまでも人間的であって、単に動物的であるのではない。即ちそれはデモーニッシュな性質をもっている。かようにして我々はつねに快楽を求めて行為するというのでなく、むしろしばしば悲劇的なもの、快楽や幸福を否定するものを求めてさえ行為する。この点において快楽説は、抽象的なオプティミズム(楽天説)に立っている。また更に快楽は多くの場合我々自身に依存するのでなく、我々の外部にあるものに依存している。それは自己の外部にある物に依存し、或いは他の人間の存在に依存している。従って快楽を目的とする行為は自律的でなくて他律的でなければならぬ。かような行為は自由であることができぬ。自律的でないところに自由はないからである。もと内在論の上に立つ快楽説においては自由は認められない。自由の根拠は人間存在の超越性である。
 快楽は生命に対する功利的価値を意味している。そこで快楽説は功利主義的であるのがつねであり、功利主義はまた快楽説的であるのがつねである。我々の生活は環境における生活であるとすれば、我々の行為が何等か功利性を目差しているということは疑われず、その限り功利主義は理由をもっている。しかるに我々にとって環境であるのは何よりも社会である。我々は本質的に社会的存在であるとすれば、我々はもと唯ひとり幸福になることができぬ。社会のうちに不幸な人間が存在する場合、我々は真に幸福になることができないであろう。従って快楽とか幸福と
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