あるといわれるであろう。しかしながら人間は同時に「善い人間」の意味においてその社会を超えたものである。自己の自発的な行為によって自己がその中にいる社会を善くしてゆくことが人間の義務であるといわねばならぬであろう。我々は社会から作られたものであると共に社会は我々が作るものである。人間は閉じた社会に属すると同時に開いた社会に属している。かように矛盾があるところから形成的発展ということがあるのである。善い国民であることと善い人間であることとが統一されてゆくに従って、民族は世界的意味をもってくる。それによって同時に世界は世界的になってゆく。世界が世界的になるということが歴史の目的である。世界は開いたものとして到る処中心を有する円の如く表象されるように、世界が世界的になるということは無数の独立なものが独立なものでありながら一つに結び付いてゆくということである。それによって個別的なものがなくなるのではない。却って「形の多様性」は自然の、歴史的自然の意志である。

      三 行為の目的

 行為には目的がなければならぬと考えられている。行為は意志に基いて起り、意志は目的をもっている。そして一般に知識の目的が真理であるように、道徳的行為の目的は善と呼ばれるのである。そこで善とは何かということが道徳の根本問題になってくる。
 行為の目的は快楽であるとするのは快楽説である。それとつながって、行為の目的は幸福であるとする幸福説がある。幸福は何等かの快楽を意味している。ところで快楽は主観的なものであり、各個人によって快楽とするものは異る故に、快楽を目的とする場合、道徳は客観性のないものになるであろう。そこに何等か客観的な標準を求めようとすれば、快楽というものを量化して考えねばならなくなる。もし快楽に肉体的快楽と精神的快楽というような性質的差別を認め、我々の求むべきものは肉体的快楽でなくて精神的快楽であるというように主張するとすれば、それはすでに道徳の基準を快楽以外のものから取ってくることになる。快楽を無差別にただ量的に考えるのでなければ快楽説は純粋でない。しかるに心理現象は本来すべて性質的なものであって、量的に考えることを許さないのである。功利主義者ミルの如きも、幸福な豚になるよりも不幸なソクラテスになることを選ぶといっている。しかしもしかように考えるとすれば、それは快楽説の自殺でな
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