知識の倫理として要求される筈である。かように意志を制限することが知識の倫理であると考えるところに認識論上の主知主義の特色が認められるであろう。知識の倫理の問題はまた認識の主体が単に表象的・思惟的なものでなく全体の人間であると主張する立場とも差当り無関係である。認識が思惟の作用に属することは争われないにしても、思惟は現実において人間の他のもろもろの心的活動と結び付いて存在することが明かであるとすれば、思惟が完全に働き得るためには、他のもろもろの心的括動が一定の状態におかれることが必要である。それは主知主義者の考える如く他のもろもろの心的活動がすべて鎮静に帰せられねばならぬということに限られない。或る一定の心的活動は抑止されねばならぬにしても、他の一定の心的活動はむしろ活発にされねばならぬと考えることもできる。かようにして我々の心のうちに一定の秩序の生ずることが認識にとって必要であり、徳とはまさにかくの如き心のうちにおける秩序を意味している。また客観主義の立場において、認識することは対象に純粋に身を委ねることであると考えても、主観のかような態度は決して単に投遣りの態度でないことはもちろん、単に受動的な態度でもなく、道徳的な心の準備を必要とするのである。更にヴィンデルバントのいう如く、本来の認識である判断には知的契機と共に意志的契機が含まれるとすれば、意志の一定の状態ないし態度が認識のために要求される筈である。いわゆる真理への意志は知識の倫理の問題でなければならぬ。
 いま古代及び中世の哲学を振り返って見ると、近世哲学におけるのとは異り、知識の倫理について極めて熱心に説かれているのが見出されるのである。しかるに近世におけるいわゆる認識論の特色は、知識の問題からその倫理の問題を抽象しているところにあるといい得るであろう。ソクラテスは克己と愛とを真の知識を得るための道徳的条件と考えた。かような愛の思想はプラトンにおいて発展され、彼の形而上学的認識の説と深く結び付けられている。プラトンに依ると、哲学者は愛によって、生成消滅の世界に執着する人間の自然知から永遠な存在即ちイデアの世界についての真知へ高められる。そこには「魂の翼の運動」がなければならず、「魂の転向」がなければならぬ。この転向は単に知的な意味のものでなく、全体の人格に関わるものである。またアリストテレスにとっては、知識
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