る。知性のみによって観念を捉え、この概念について判断を下すとすれば、そこに誤謬は見出されない。意志の能力は或ることを為しもしくは為さぬことができるということ、或ることを肯定しもしくは否定することができるということにある。それは知性によって我々に供せられたものを肯定しもしくは否定するとき我々が何等外的な力によって決定されていないと考えて行動するという事実に存している。そして誤謬は、意志の及ぶところが悟性よりも広く、私が意志を悟性の範囲内に拘束しないで、私の理解しないものにまで拡げることから生ずるのである。かようにして判断に固有なものが肯定と否定、承認と否認にあるとすれば、認識は意志に関わり、そこに誤謬の根源もあるということになる。ベルクマンは、判断における肯定と否定を、主語と述語の間の単に表象された関係をば判断に化するところの、批評的態度と考えた。そこから彼は、判断を単なる理論的態度と見ないで、実践的性質を帯び、意欲的能力の共存する精神の発現と見なければならぬという結論に達している。ヴィンデルバントに依ると、真理はもと、言語的には文章において表現され、論理的には判断と称せられる表象の結合にのみ関わっている。しかるに判断は心理的過程として極めて特色ある構造のものであり、そこでは我々の心の全体が、その理論的機能並びに実践的機能が、最も判明に、最も完全に現われる。判断するというのは、単に表象を結合することでなく、この結合を妥当なもの或いは真として主張することであり、他方否定判断においては、この結合を偽として拒否することである。かようにして判断のうちには種々の内容を一定の関係において思惟する知的契機のみでなく、この関係を肯定もしくは否定する意志的契機が含まれている。意志決定なしには判断は成立せず、従って意志は認識に対して責任があることになる。認識の根柢には「真理への意志」がなければならぬと主張されるのである。
もしかくの如くであるとすれば、認識にもその倫理がなければならぬということは明かである。それは認識論において主知主義をとるか主意主義をとるかということとは差当り無関係である。主知主義のデカルトにおいても、我々が誤謬に陥るのは我々が意志を悟性の明晰判明に理解するもの以外に拡げて判断を下すことから生ずると考えられるのであるから、我々の意志を悟性の範囲内に拘束するということが
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