あり、行為に媒介されるのでなければ、その求める客観性に達することもできない。また自然科学における法則も個々の事実から発見されるのであって、特殊的なものに媒介されるのでなければ、その求める一般性に達することもできぬ。しかし自然科学が客観的な一般的な法則を求めてゆくに対して、それを基礎とする技術に至って再び現実的に形に結び付くのである。技術によって生産されたものは主体から独立なものとなり、我々の生活にとって新しい環境となるのである。
ところで右の論述によっておのずから明かになったことは、存在論、認識論、論理学の統一である。アリストテレス的論理は形式論理といわれているが、それはもと単に形式的であったのでなく、形相を実在と見るギリシア的存在論と密接に結び付き、そしてそれは認識論においては模写説的立場に立っている。形相とは物の形をいい、イデアとかエイドスとかという言葉で表わされた。個々の人間は生れては死ぬる、けれども人間の形相は一にして同一であり、つねに変ることなく、すべての人間は人間である限りこれを具えている。形は物の本質、真の存在と考えられた。かようなものについては形式論理における矛盾律ないし自同律は単に形式的でない実質的な意味をもっているであろう。アリストテレスは矛盾律の定式において、それ自身としてそれ自身において限定され、両義性を排する、物における不可分の点に達しようとしたのであって、物におけるかような不可分の点とは物におけるイデア的なもの、形相にほかならぬ。また形式論理における推理、いわゆる三段論法において最も重要な位置を占めるのは中概念であり、推理においては中概念が自己同一に止まることが原則的に要求されている。かような中概念となるのは、アリストテレスに依ると、本質或いは形相である。「本質が三段論法の原理である」、と彼はいっている。しかるにカントの先験論理は、その認識論における構成説と密接につながり、その場合に考えられた存在は客観としての自然、法則的な自然である。カントはニュートンの物理学をモデルとしてその認識論を建てたといわれている。先験論理は形式的な論理でなく、「対象の論理」である。それは対象を構成することによって対象を認識するという立場に立っている。形式論理は与えられたものを分析してそのうちに含まれる本質を抽象してくる分析論理であるに対して、先験論理の根本概
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