えることを要求するのである。次にこれと関聯して、形概念の見方は単なる直観主義であるのではない。芸術の如きにしても単なる直観からは作られないであろう。芸術もまた技術である。すべて物を作るには知識が必要である。行為的直観は概念的知識に媒介されたものでなければならぬ。単に見るのでなく作るという立場に立つならば、一般的なもの、法則的なものの認識は形成作用にとって欠くことのできぬものである。結果は直接的なものであるとヘーゲルはいったが、直接的なものは媒介を経て出てきた結果である。
かようにして形概念は何よりも技術に定位をとるのである。技術にとっては先ず客観的な法則の認識が要求されている。科学は技術の基礎である。自然の法則に反して人間は何物も作ることができぬ。しかし自然の法則はつねに働いているにしても、この机、この椅子の如きものは森の中から出てきはしないであろう。技術があるためには自然の法則に人間の目的が加わらねばならず、技術はこの主観的なものと客観的なものとの統一を求めるのである。しかし主観的なものと客観的なものとの統一がただ頭の中で考えられるだけでは技術とはいわれず、技術はこの統一を行為的に実現するのである。技術は物を変化し、物を作る、技術は生産的である。技術によって作られたものはすべて形を有し、形は主観的なものと客観的なものとの統一を現わしている。あたかもそのように、あらゆる歴史的なものは主観的・客観的なものであり、形のあるものである。それは技術的に形成されたものである。文化も技術的に作られ、社会の制度や組織の如きも技術的に作られる。すべて歴史的なものは技術的に形成されたものとして、環境的に限定されると共に主体的に限定され、主観的であると同時に客観的なもの、一般的であると同時に特殊的なものである。歴史的認識は究極において形を目的とするところから、すぐれた意味において形成作用であるといい得るが、飽くまでも客観的であることを期する自然科学的認識でさえもが、右に述べたように主観的・客観的な形成作用と見られ得るというのは、元来それをも歴史的なものとして捉えるからでなければならぬ。自然も環境の意味においては単なる客観としての自然でなく、すでに歴史的なもの、表現的なものであり、自然の認識も、それを環境として生活する歴史的人間の行為として始まるのである。自然科学における主観も操作的で
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