れたものである。実験に依るといわれない認識においても、認識の対象は認識の方法に制約され、逆に認識の方法は認識の対象に制約され、方法と対象という対立物の統一として認識は形成される。先験的と経験的、合理的と実証的、構成的と模写的、主観的と客観的というように対立したものは認識において形成作用的に、弁証法的に統一されるのである。カントの先験的方法は実験的方法を真似たものであるにしても、認識の静的な分析にとどまって、その現実的な歴史的な過程を明かにするものではない。
 カントの批判論は、経験を主として知識の問題として捉えることにおいてのみでなく、直観に与えられたものをばらばらのものと考えることにおいて、経験論に類似している。ヒュームは観念を原子の如く分離した個々非連続的なものと見て、かような要素の機械的な法則による結合から複雑な心理現象を考えた。同様の前提がカントにも附き纏っている。彼においても、直接に与えられたものは「直観の多様なもの」、「現象の雑沓」である。もしそうであれば、我々の知識の関心する普遍的なもの、統一的なものは、我々に与えられたものそのもののうちにはなく、我々自身がそれに与えたものと考えられねばならない。「我々は物についてただ我々自身がその中へ入れるもののみを先験的に認識する」、とカントはいっている。統一的なもの、普遍的なものはすべて主観の側に帰せられることになる。カントの批判論が構成説であり、主観主義であり、先験主義である理由がそこにある。もちろん、主観の形式である範疇も対象に適用され得るものとして範疇であるから、その限りカントの範疇も主観的・客観的なものといわれ得るにしても、そのものとしてはどこまでも主観に属している。これは直観に与えられたものを単に多様なものと見る立場においては必然的なことである。しかるにジェームズはヒュームの原子論的見方に対して、単に要素のみでなく、要素間の関係そのものもまた経験されるといい、その立場を「根本的経験論」と名付けた。分離と共に結合が、非連続と共に連続が経験される。表象というものも一において多を表現することである。直観において我々に与えられたものは「盲目的」なものでなく、それ自身すでに表現的なものであり、意味をもったものである。意味というのは単に主観的なものでなく、客観的なもの超越的なものである。我々の認識作用は全く無意味な
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