に実践に求めることは、知識の内在的な基準を否定し、その自律性を否定することになるであろう。知識はそれ自身の基準をもっており、行為と対立している。しかし両者はまた統一をなしている。経験というものがまさにそのことを示している。経験論の偏見を離れてみると、経験は単に知識の事柄でなくて行為の事柄である。経験するとは働くことによって知ること、知ることによって働くことである。近代科学における実証的精神というものの本質もそこにあるのであって、その実験的方法は経験の自覚であるということができる。
 さきに述べた如く、カントは自己の哲学的方法を自然科学における実験的方法に比較した。彼が経験のうちに先験的要素を認めたのも、それに関聯して考えることができる。実験において我々はただ偶然に経験するのでなく、方法的に、組織的に、計画的に経験するのである。その場合我々は一定の観念をもって臨み、この観念に従って現象を意識的に作り出すことによって、現象を観察する。即ち実験は単に経験的でなくて先験的な要素を含むといわれるであろう。先験的とは経験から超絶して経験と無関係なもののことでなく、却ってそれによって経験が可能になるものである。「だからこの自然研究者を真似た方法は、純粋理性の諸要素を実験によって証明されもしくは反駁され得るもののうちに求めるところにある」、とカントは書いている。理性の先験的な要素は実験によって証明されもしくは反駁され得るもの、即ち経験のうちに含まれているのである。経験は単に経験的なものでなく、同時に先験的なものである。単に経験的であることは真に経験的であることでなく、単に実証的であることは真に実証的であることではない。しかるに実験は操作であり、認識の主体もすでに行為的であるといわねばならぬ。実証的知識は一定の操作によって獲得されるものであり、概念はその獲得のうちに含まれる操作と当値であって、操作的概念と称せられる。例えば一メートルという長さの概念は、この長さの測定を離れてなく、その測定と同義である。ブリッヂマンは物理的概念は操作的概念であるといっている。操作は客観的に知ることを目的としているが、操作はまた主観的に制約されている。知識は主観的・客観的なものである。それが操作的に得られるというのは技術的に得られるということである。認識も形成作用の一種である。概念は操作的概念として形成さ
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