れてゐるが、それを形而上學の基礎附けであると見るハイデッゲルの如き見方も存在するのである。私どもが哲學の勉強を始めた頃には認識論が全盛であつたが、今日では反對に形而上學が流行して認識論はあまり顧みられず、論理といつても殆ど辯證法一點張りになつてゐる。これにも或る必然性があるであらうが、かやうな時代にむしろ認識論の問題から出直してみることが却つて新しい哲學の生れてくる契機になるかも知れない。哲學者には、時代の中にあつてこれを超え得る心のゆとり、精神の自由が欲しいものである。
論理は具體的には特に科學の論理、或ひは認識論的意味における科學の方法論である。ここに哲學の一つの重要な領域が存在することは先にいつた通りである。もちろん哲學の問題は、論理の問題にしても、また實在の問題にしても、單に科學のみでなく、あらゆる方面に横たはつてゐる。各人は自分の立つてゐる所から問題を捉へて哲學に向はねばならぬことは既に述べておいた。從來哲學において問題とされてゐるものが何であるかを知ることも必要ではあるが、現代には現代の問題があるであらう。この轉換期において哲學は生きるか死ぬるかの重大な危機に立つてゐるのではないかと思ふ。問題を發見することは既に半ば問題を解決したことであるといはれるが、大きな哲學はつねに大きな問題を提げて現はれてきた。これから哲學をやらうといふ人に期待されるものは大きく、それだけにまた大きな覺悟を要するのである。
一一
ところで如何なる創造も傳統なしにはあり得ないといふ意味において、哲學をやらうといふ者は絶えず哲學史を顧みなければならぬであらう。今初めて哲學史を見ようといふ人には、波多野精一先生の『西洋哲學史要』を勸めたい。もう少し詳しいもので、しかもわかり易いものを求める人には、フォルレンデルの『西洋哲學史』が適當であらう。ヴィンデルバントの『哲學史教科書』は問題史的な哲學史として特色があり、目を通さねばならぬ名著であるが、入り易いものとはいへないであらう。各時代についてはそれぞれ標準的な書物があるが、ここには煩瑣を避けて擧げない。またユーベルウェークの『哲學史』のやうな辭典として便利な書物もある。
西洋哲學の源泉として重要なものは、近代科學を別にすれば、ギリシア哲學とキリスト教である。私自身は特に波多野先生の講義や談話によつてこれらのものに對して眼を開かれた。西洋哲學を研究しようとする者はキリスト教の知識を備へなければならないが、とりわけギリシア哲學を研究することが大切である。その研究は現代において特に重要な意味をもつてゐるのではないかと思ふ。西田先生の思想の如きも、先生がギリシア哲學に深く入られるやうになつてから著しい發展があつたやうに思ふ。哲學史に就いて思想の歴史的聯關を見ることは忘るべきではないが、更に進んで、自分で原典にあたつて研究することが大切である。原語で讀むに越したことはないが、たとひ飜譯であつても、古典は完全な形で讀むべきである。何でも原語で讀まなければ氣がすまぬといつて、そのために讀むべき本を讀まないでゐる人もあるが、愚かなことであると思ふ。絶えず古典に接することが大切であるといつても決して、新しいものを讀むことが不必要なわけではない。古典の中にばかり閉ぢ籠つてゐると、ひとりよがりになるとか、學問が趣味に墮してしまふといふやうな危險があるのである。古典も新しい眼をもつて見なければ生きてこないのであつて、それには現代の問題について深い關心がなければならぬ。もちろん古典をただ勝手に解釋すれば好いといふのではない。初めからかやうな態度をもつて臨めば、どのやうな本を讀んでも益はないであらう。眞の讀書においては著者と自分との間に對話が行はれるのである。しかも自分が勝手な問を發するのでなく、自分が問を發することは實は著者が自分に問を掛けてくることであり、しかも自分に問題がなければ著者も自分に問を掛けてこない。かくして問から答へ、答は更に問を生み、問答は限りなく進展してゆく。この對話の精神が哲學の精神にほかならない。
哲學の個々の部門、例へば歴史哲學、社會哲學、藝術哲學、道徳哲學、宗教哲學、等々について、私の乏しい經驗の範圍内でもなほいろいろ注意しておきたいことがあるが、與へられた紙數も盡きたから、ここでひとまづ筆を擱くことにする。
底本:「三木清全集 第一巻」岩波書店
1966(昭和41)年10月17日発行
初出:「圖書」岩波書店
1941(昭和16)年3〜5月
入力:石井彰文
校正:川山隆
2008年1月25日作成
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