とを理解せんがためである。また彼等は他人のいはゆる成功や英雄的行為によつて徒らに感激させられることを喜ぶのではない。むしろ彼等は平凡な人生の複雑微妙、世のつねのすがたの面白さ、深さを理解することを求めるのである。
といふのはかうである。日記や自叙伝は、本来、他人の醜聞を愛する人の趣味に適するものでない、なぜなら人間は自分自身のためにのみ記された日記の中においてさへ容易に自分の秘密を赤裸裸に告白するものではないから。また日記や自叙伝においては、本来、偉大な人々も、彼等の超人間的な行為や事業のすばらしさについて語るよりも、むしろ彼等の人間らしい生活や運命について書くことを好むものであるから、自己誇示はいふまでもなく、自己暴露ないし自己露出といふことも日記や自叙伝においては堅く禁じられてゐる。そこにおいてほどリアリズムの要求されるところはないのである。
だが三つの種類の人間があるのでなく、それらはむしろ人間の三つのこころを現はすものとも見られよう。従つて我々が実際に日記や自叙伝をひもどかうとする気持には、他人の私事の秘密を喜ぶこころ、もしくは他人の成功や英雄的行為にあやからうとするこころ
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