ていたようであるが、私はついに行かないでしまった。町はいつも静かで、落着いていた。ここで暮らした一年間はまた私のこれまでの一生のうち最も静かな、落ち着いていた時期であった。予定した滞在の期限が切れても、私はなかなか去り難い思いであった。どうしようかと迷っていたとき、私の心の中に蘇ってきたのは、深田先生などによって与えられていたフランス文化に対する憧れである。マールブルクにフランス語の会話を教える婦人があるということを聞いて、パリへ出る準備のために、一か月ばかり通った。私のフランス語はほとんど独学であった。高等学校の時代、暁星で朝七時から八時までフランス語の講習をしているのを知って本郷の寄宿寮から通ったこともあるが、なにぶん八時から始まる学校の授業に対して無理をしなければならぬことなので、長くは続かなかった。独学でどうにか本だけは読めるようになったが、日常の会話にはさっぱり自信がなかったのである。
 私はマールブルクからパリへ行くことに決めた。そのとき私の手もとにはアンドレ・ジードの小説が数冊あった。これはその年の春ウィーンに旅行したとき、偶然に買ってきたものである。その頃ウィーンには上
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