私は一年近くの間、この老先生のお宅に伺って、漢詩を作ることを稽古したことがある。その時分私は学校の作文では、当時の中学生に広い影響を与えていた大町桂月を読んで、桂月張りの文章を書いていたが、漢詩を習うようになってから勉強したのは久保天随とか森槐南とかの著書であった。一時は『唐詩選』の中の詩をできるだけ多く暗記するつもりで取りかかったことがある。先だって冨山房百科文庫で森槐南の『唐詩選評釈』を買ってきて読み、昔を思い出して懐しかった。
 図画の教師で法制経済も教えておられた先生に巌本という人があった。私はこの先生から思想といえば思想らしいものを注ぎ込まれたのである。藤岡にいわせると、巌本先生は社会主義者であるといっていたが、むしろニヒリストであったようである。幸福でなかった先生の境遇が恐らくそうしたものであろう。先生はもと評論家か新聞記者になられるつもりであったらしく、その仕事の重要さをよく話しておられた。私どもは教室でもしばしばこの先生から、中江兆民、福沢諭吉、徳富蘇峰、三宅雪嶺などについて聞かされたものである。しかし私はその頃はむしろ文学に熱中していて、思想の問題についてはそれほど深
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