り、父母に内証の借金が出来て苦労したこともある。時には姫路まで出かけて古本屋漁りをした。
外国文学では、藤岡は特にワイルドが好きで『リーディング監獄の歌』を回覧雑誌に訳したりしていたが、私もワイルドのものを東京の丸善から取り寄せて辞書を頼りに読んだことがある。私には『デ・プロフンディス』が強く印象に残っている。他には、これも藤岡の感化で、ツルゲーネフのものを比較的多く読んだ。その時分私の中学で外国文学の新知識は、旧姓を永富といい、現在外交評論家として知られている鹿島守之助君であった。鹿島君は私どもよりは一年先輩であるが、令兄が大学で文科をやられていたのによるであろうか、私どもを全く驚かしたほど外国の作家のことを知っていた。昼の休みの時間に、学校の運動場の隅で、藤岡や私は鹿島君から、ハウプトマンがどうの、マーテルリンクがどうの、ボードレールがどうの、などとよく聞かされたものである。つまり西洋現代文学史の講義を一通り聞いたわけである。鹿島君には久しく会わないが、会って当時を語れば、お互いに吹き出すようなことが多いであろう。
正確には覚えていないが、ブリックスといったのではないかと思う、私の在学時代に竜野中学にも初めて外人教師が来た。今関西学院の教授で経営学を担当している池内信行は私の同級生で、彼は英語の会話を最も得意とし、この先生とよく一緒であったようである。このアメリカ人の先生が就任の挨拶の時に、自分は太平洋を渡って来たが、この水が日本の岸を洗っていることを思い、世界は一つのものであることを深く感じたといった言葉が今も妙に私の耳に残っている。この先生は町でバイブル・クラスを開いていたが、英語の勉強のつもりでそれに出席したのが私の聖書を読んだ初めである。その後私は聖書は好んで日本訳で読んでいる。この翻訳は恐らく二葉亭や鴎外の翻訳以上に、日本文学史上における偉大な業績である。
詩や歌の方面では、その頃の青年の多くがそうであったように、私も土井晩翠の『天地有情』を、その中のいくつかを暗誦し得るまでに読んだ。『藤村詩集』もよく読んだが、私の好きであったのは何よりも北原白秋の『邪宗門』や『思い出』であった。今も白秋の詩は私の好きなものの一つである。三木露風は姓が同じであるので、親戚ではないかとよくきかれることがある。そうではないが、露風も竜野の人なので、その名は中学時代か
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