でみることを欲しないような本があるものである。
三
中学の同級生に古林巌というのがいた。後に姓を改めて藤岡といったが、私どもの学校で有名な秀才で、非常な読書家でもあった。四年生の時彼が寄宿舎を出て私の村に下宿するようになってから親しく交わるようになったが、その時以来私は彼の影響でいろいろな書物を読むようになった。考えてみると、私が哲学を志望するようになったのも、藤岡の感化に基づいている。五年生の頃、彼は永井潜博士の著書を愛読し、しきりに生命の問題を論じ、私をとらえては器械説がどうの、生気説がどうの、と語り、フェルウォルンを尊敬し、その『一般生理学』を読むためにすでにドイツ語の勉強を始めていた。その時分の中学では恐らく珍しい科学講演会というものを組織したのも彼であった。彼に刺戟されて私も永井博士の『生命論』を読み、あるいは丘浅次郎博士の『進化論講話』を繙《ひもと》きなどして、生命の問題に関心をもつようになったことが、後に私が哲学に入る機縁となったのである。藤岡は六高を経て京大の医科を卒業して生理学を研究し、特に生理学史に興味をもち、その方面の論文を発表していたが、不幸にして病に斃《たお》れてしまったのは惜しいことであった。彼も後年にはよく哲学の本を読んでいたようである。坂田徳男君は彼と同郷の後輩で、彼と同じように六高を経て京大の医科を卒業して生理学を勉強したが、今日では専門の哲学者になってしまった。
たいていの人は先ず文芸書を通して読書家になるのではないかと思う。藤岡の場合もそうであり、いつも彼に指導されていた私の場合もそうであった。それに藤岡は初めは文学者になるつもりであったらしく、彼の提唱で文芸の回覧雑誌が出来、私も一、二小説めいたものを書いたことがある。その時の同人に現在新京の建国大学にいる宗教学の松井了穏がある。その頃私は、紅葉、露伴から、漱石、鴎外、一葉、樗牛、独歩、花袋、秋声、白鳥、荷風、潤一郎、三重吉など、実にいろいろなものを読んだが、特に感銘を受けたものを挙げるとすれば、藤村の『破戒』、『春』、『家』といったもの、『即興詩人』とか『涓滴』などの鴎外のものを挙げねばならぬであろう。その後藤村のものはあまり見ないが、鴎外のものは今もときどき見ることがある。竜野の町に伏見屋という本屋があって、私はよく学校の帰りにそこに寄って本を漁《あさ》
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