い関心がなかった。巌本先生から教えられたものの中では、蘆花との因縁で、蘇峰氏のものを最も多く読んだが、それもその時分流行していた演説の材料にするつもりで読んだので、思想的影響というようなものはなかった。
播州赤穂は竜野から五里ばかりのところにある。私どもの中学では毎年義士討入りの日に全生徒が徹夜で赤穂の町まで行軍を行ない、そこで義士追慕の講演会を開くのが例であった。その講演会には生徒のうちの雄弁家が出ることになっていたので、平素においても演説はなかなか盛んであった。もっとも、これは、その時代が日本におけるいわば一つの雄弁時代であって、今の『雄弁』という雑誌もその頃は名のごとく主としてわが国の有名な雄弁政治家の演説の速記を載せていたような有様で、私どもの田舎の中学でも擬国会を催したこともあるという時代の一般的な空気の影響でもあり、むしろそれが根本的であった。私も一時は『雄弁』の愛読者であって、中学の裏の山に登って声を張り上げて演説の稽古をしたこともある。国語の教師に野崎先生というのがあり、演説が得意で、生徒にもそれを奨励されていた。赤穂の講演会での演説の準備という意味もあって、義士伝はその時分ずいぶんいろいろ読み漁った。福本日南の『元禄快挙録』なども感激して読んだものであるが、今は岩波文庫の中に収められるようになった。
かようにして中学時代の後半は、私の混沌たる多読時代であった。私は大正三年に中学を卒業したが、私の中学時代は、日本資本主義の上昇期で『成功』というような雑誌が出ていた時である。この時代の中学生に歓迎されていた雑誌に押川春浪の『冒険世界』があった。かような雰囲気の中で、私どもはあらゆる事柄において企業的で、冒険的であった。私の読書もまたそうであったのである。これに較べると、高等学校時代の私は種々の点でかなり著しい対照をなしている。
五
自分について語ることは危険なことである。それは卑しいことであり、少なくとも悪い趣味であるといわれるであろう。私は書物について書きながら自分について、また他の人々について書くことになった。どのような本を読んだかは、ある意味ですべて偶然的なことである。しかし他方それはまたすべて必然的なことである。この偶然性と必然性とをいくらかでも示すためには、人間について、とりわけ自分について書くのを避けることができない。
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