、人間の生活はフィクショナルなものである。それは藝術的意味においてもさうである。といふのは、つまり人生はフィクション(小説)である。だからどのやうな人でも一つだけは小説を書くことができる。普通の人間と藝術家との差異は、ただ一つしか小説を書くことができないか、それとも種々の小説を書くことができるかといふ點にあるといひ得るであらう。
 人生がフィクションであるといふことは、それが何等の實在性を有しないといふことではない。ただその實在性は物的實在性と同じでなく、むしろ小説の實在性とほぼ同じものである。即ち實體のないものが如何にして實在的であり得るかといふことが人生において、小説においてと同樣、根本問題である。

 人生はフィクショナルなものとして元來ただ可能的なものである。その現實性は我々の生活そのものによつて初めて證明されねばならぬ。

 いかなる作家が神や動物についてフィクションを書かうとしたであらうか。神や動物は、人間のパッションが彼等のうちに移入された限りにおいてのみ、フィクションの對象となることができたのである。ひとり人間の生活のみがフィクショナルなものである。人間は小説的動物であ
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