懷疑に變り得るのであるが、これは想像されるやうに容易なことではない。
純粹に懷疑に止まることは困難である。ひとが懷疑し始めるや否や、情念が彼を捕へるために待つてゐる。だから眞の懷疑は青春のものでなく、むしろ既に精神の成熟を示すものである。青春の懷疑は絶えず感傷に伴はれ、感傷に變つてゆく。
懷疑には節度がなければならず、節度のある懷疑のみが眞に懷疑の名に價するといふことは、懷疑が方法であることを意味してゐる。懷疑が方法であることはデカルトによつて確認された眞理である。デカルトの懷疑は一見考へられるやうに極端なものでなく、つねに注意深く節度を守つてゐる。この點においても彼はヒューマニストであつた。彼が方法敍説第三部における道徳論を暫定的な或ひは一時しのぎのものと稱したことは極めて特徴的である。
方法についての熟達は教養のうち最も重要なものであるが、懷疑において節度があるといふことよりも決定的な教養のしるしを私は知らない。しかるに世の中にはもはや懷疑する力を失つてしまつた教養人、或ひはいちど懷疑的になるともはや何等方法的に考へることのできぬ教養人が多いのである。いづれもディレッタン
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