間ではない。彼が他の人に滲透する力はむしろその一半を彼のうちになほ生きてゐる懷疑に負うてゐる。少くとも、さうでないやうな宗教家は思想家とはいはれないであらう。
自分では疑ひながら發表した意見が他人によつて自分の疑つてゐないもののやうに信じられる場合がある。そのやうな場合には遂に自分でもその意見を信じるやうになるものである。信仰の根源は他者にある。それは宗教の場合でもさうであつて、宗教家は自分の信仰の根源は神にあるといつてゐる。
懷疑といふものは散文でしか表はすことのできないものである。そのことは懷疑の性質を示すと共に、逆に散文の固有の面白さ、またその難かしさがどこにあるかを示してゐる。
眞の懷疑家は論理を追求する。しかるに獨斷家は全く論證しないか、ただ形式的に論證するのみである。獨斷家は甚だしばしば敗北主義者、知性の敗北主義者である。彼は外見に現はれるほど決して強くはない、彼は他人に對しても自己に對しても強がらねばならぬ必要を感じるほど弱いのである。
ひとは敗北主義から獨斷家になる。またひとは絶望から獨斷家になる。絶望と懷疑とは同じでない。ただ知性の加はる場合にのみ絶望は
前へ
次へ
全146ページ中25ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
三木 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング