のとは逆に、感性的な直觀がそれ自身の種類において確實なものの直觀であるのに對して、知性的な直觀の特徴はむしろ不確實なものの直觀に存するやうにさへ思はれる。確實なものの直觀は――感性的なものであるにせよ、超感性的なものであるにせよ、――それ自體においては論理の證明を要しないのに反して、不確實なものの直觀――懷疑的直觀もしくは直觀的懷疑――こそ論理を必要とするもの、論理を動かすものである。論理によつて懷疑が出てくるのでなく、懷疑から論理が求められてくるのである。かやうに論理を求めるところに知性の矜持があり、自己尊重がある。いはゆる論理家は公式主義者であり、獨斷家の一つの種類に過ぎない。
 不確實なものが確實なものの基礎である。哲學者は自己のうちに懷疑が生きてゐる限り哲學し、物を書く。もとより彼は不確實なもののために働くのではない。――「ひとは不確實なもののために働く」、とパスカルは書いてゐる。けれども正確にいふと、ひとは不確實なもののために[#「ために」に傍点]働くのでなく、むしろ不確實なものから[#「から」に傍点]働くのである。人生がただ動くことでなくて作ることであり、單なる存在でなくて
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