る。いまもし現代が新しいルネサンスであるとしたなら、そこから出てくる新しい古典主義の精神は如何なるものであらうか。

 愛する者、親しい者の死ぬることが多くなるに從つて、死の恐怖は反對に薄らいでゆくやうに思はれる。生れてくる者よりも死んでいつた者に一層近く自分を感じるといふことは、年齡の影響に依るであらう。三十代の者は四十代の者よりも二十代の者に、しかし四十代に入つた者は三十代の者よりも五十代の者に、一層近く感じるであらう。四十歳をもつて初老とすることは東洋の智慧を示してゐる。それは單に身體の老衰を意味するのでなく、むしろ精神の老熟を意味してゐる。この年齡に達した者にとつては死は慰めとしてさへ感じられることが可能になる。死の恐怖はつねに病的に、誇張して語られてゐる、今も私の心を捉へて離さないパスカルにおいてさへも。眞實は死の平和であり、この感覺は老熟した精神の健康の徴表である。どんな場合にも笑つて死んでゆくといふ支那人は世界中で最も健康な國民であるのではないかと思ふ。ゲーテが定義したやうに、浪漫主義といふのは一切の病的なもののことであり、古典主義といふのは一切の健康なもののことであると
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