べて小さいことによつて生ずるものは小さいことによつて生じないやうにすることができる。しかし極めて小さいことによつてにせよ一旦生じたものは極めて大きな禍を惹き起すことが可能である。
 社會と文化の現状は人間を甚だ神經質にしてゐる。そこで怒も常習的になり、常習的になることによつて怒は本來の性質を失はうとしてゐる。怒と焦躁とが絶えず混淆してゐる。同じ理由から、今日では怒と憎みとの區別も瞹昧になつてゐる。怒る人を見るとき、私はなんだか古風な人間に會つたやうに感じる。

 怒は復讐心として永續することができる。復讐心は憎みの形を取つた怒である。しかし怒は永續する場合その純粹性を保つことが困難である。怒から發した復讐心も單なる憎みに轉じてしまふのが殆どつねである。

 肉慾的な愛も永續する場合次第に淨化されて一層高次の愛に高まつてゆくことができる。そこに愛といふものの神祕がある。愛の道は上昇の道であり、そのことがヒューマニズムの觀念と一致し易い。すべてのヒューマニズムの根柢にはエロティシズムがあるといへるであらう。
 しかるに怒においては永續することによつて一層高次の怒に高まるといふことがない。しかしそれだけ深く神の怒といふものの神祕が感じられるのである。怒にはただ下降の道があるだけである。そしてそれだけ怒の根源の深さを思はねばならないのである。
 愛は統一であり、融合であり、連續である。怒は分離であり、獨立であり、非連續である。神の怒を考へることなしに神の愛と人間的な愛との區別を考へ得るであらうか。ユダヤの豫言者なしにキリストは考へ得るであらうか。舊約なしに新約は考へ得るであらうか。

 神でさへ自己が獨立の人格であることを怒によつて示さねばならなかつた。

 特に人間的といはれ得る怒は名譽心からの怒である。名譽心は個人意識と不可分である。怒において人間は無意識的にせよ自己が個人であること、獨立の人格であることを示さうとするのである。そこに怒の倫理的意味が隱されてゐる。
 今日、怒といふものが瞹昧になつたのは、この社會において名譽心と虚榮心との區別が瞹昧になつたといふ事情に相應してゐる。それはまたこの社會において無性格な人間が多くなつたといふ事實を反映してゐる。怒る人間は少くとも性格的である。

 ひとは輕蔑されたと感じたとき最もよく怒る。だから自信のある者はあまり怒らない。彼の名譽心は彼の怒が短氣であることを防ぐであらう。ほんとに自信のある者は靜かで、しかも威嚴を具へてゐる。それは完成した性格のことである。

 相手の怒を自分の心において避けようとして自分の優越を示さうとするのは愚である。その場合自分が優越を示さうとすればするほど相手は更に輕蔑されたのを感じ、その怒は募る。ほんとに自信のある者は自分の優越を示さうなどとはしないであらう。

 怒を避ける最上の手段は機智である。

 怒にはどこか貴族主義的なところがある。善い意味においても、惡い意味においても。

 孤獨の何であるかを知つてゐる者のみが眞に怒ることを知つてゐる。

 アイロニイといふ一つの知的性質はギリシア人のいはゆるヒュブリス(驕り)に對應する。ギリシア人のヒュブリスは彼等の怒り易い性質を離れて存しなかつたであらう。名譽心と虚榮心との區別が瞹昧になり、怒の意味が瞹昧になつた今日においては、たとひアイロニイは稀になつてゐないとしても、少くともその效用の大部分を失つた。
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    人間の條件について

 どんな方法でもよい、自己を集中しようとすればするほど、私は自己が何かの上に浮いてゐるやうに感じる。いつたい何の上にであらうか。虚無の上にといふのほかない。自己は虚無の中の一つの點である。この點は限りなく縮小されることができる。しかしそれはどんなに小さくなつても、自己がその中に浮き上つてゐる虚無と一つのものではない。生命は虚無でなく、虚無はむしろ人間の條件である。けれどもこの條件は、恰も一つの波、一つの泡沫でさへもが、海といふものを離れて考へられないやうに、それなしには人間が考へられぬものである。人生は泡沫の如しといふ思想は、その泡沫の條件としての波、そして海を考へない場合、間違つてゐる。しかしまた泡沫や波が海と一つのものであるやうに、人間もその條件であるところの虚無と一つのものである。生命とは虚無を掻き集める力である。それは虚無からの形成力である。虚無を掻き集めて形作られたものは虚無ではない。虚無と人間とは死と生とのやうに異つてゐる。しかし虚無は人間の條件である。

 人間の條件として他の無數のものが考へられるであらう。例へば、この室、この机、この書物、或ひはこの書物が與へる知識、またこの家の庭、全體の自然、或ひは家族、そして全體の社會……世界。このいくつか
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