ら逃れることである。旅の嬉しさはかやうに解放されることの嬉しさである。ことさら解放を求めてする旅でなくても、旅においては誰も何等か解放された氣持になるものである。或る者は實に人生から脱出する目的をもつてさへ旅に上るのである。ことさら脱出を欲してする旅でなくても、旅においては誰も何等か脱出に類する氣持になるものである。旅の對象としてひとの好んで選ぶものが多くの場合自然であり、人間の生活であつても原始的な、自然的な生活であるといふのも、これに關係すると考へることができるであらう。旅におけるかやうな解放乃至脱出の感情にはつねに或る他の感情が伴つてゐる。即ち旅はすべての人に多かれ少かれ漂泊の感情を抱かせるのである。解放も漂泊であり、脱出も漂泊である。そこに旅の感傷がある。
漂泊の感情は或る運動の感情であつて、旅は移動であることから生ずるといはれるであらう。それは確かに或る運動の感情である。けれども我々が旅の漂泊であることを身にしみて感じるのは、車に乘つて動いてゐる時ではなく、むしろ宿に落着いた時である。漂泊の感情は單なる運動の感情ではない。旅に出ることは日常の習慣的な、從つて安定した關係を脱することであり、そのために生ずる不安から漂泊の感情が湧いてくるのである。旅は何となく不安なものである。しかるにまた漂泊の感情は遠さの感情なしには考へられないであらう。そして旅は、どのやうな旅も、遠さを感じさせるものである。この遠さは何キロと計られるやうな距離に關係してゐない。毎日遠方から汽車で事務所へ通勤してゐる者であつても、彼はこの種の遠さを感じないであらう。ところがたとひそれよりも短い距離であつても、一日彼が旅に出るとなると、彼はその遠さを味ふのである。旅の心は遙かであり、この遙けさが旅を旅にするのである。それだから旅において我々はつねに多かれ少かれ浪漫的になる。浪漫的心情といふのは遠さの感情にほかならない。旅の面白さの半ばはかやうにして想像力の作り出すものである。旅は人生のユートピアであるとさへいふことができるであらう。しかしながら旅は單に遙かなものではない。旅はあわただしいものである。鞄一つで出掛ける簡單な旅であつても、旅には旅のあわただしさがある。汽車に乘る旅にも、徒歩で行く旅にも、旅のあわただしさがあるであらう。旅はつねに遠くて、しかもつねにあわただしいものである。それだからそこに漂泊の感情が湧いてくる。漂泊の感情は單に遠さの感情ではない。遠くて、しかもあわただしいところから、我々は漂泊を感じるのである。遠いと定まつてゐるものなら、何故にあわただしくする必要があるであらうか。それは遠いものでなくて近いものであるかも知れない。いな、旅はつねに遠くて同時につねに近いものである。そしてこれは旅が過程であるといふことを意味するであらう。旅は過程である故に漂泊である。出發點が旅であるのではない、到着點が旅であるのでもない、旅は絶えず過程である。ただ目的地に着くことをのみ問題にして、途中を味ふことができない者は、旅の眞の面白さを知らぬものといはれるのである。日常の生活において我々はつねに主として到達點を、結果をのみ問題にしてゐる、これが行動とか實踐とかいふものの本性である。しかるに旅は本質的に觀想的である。旅において我々はつねに見る人である。平生の實踐的生活から脱け出して純粹に觀想的になり得るといふことが旅の特色である。旅が人生に對して有する意義もそこから考へることができるであらう。
何故に旅は遠いものであるか。未知のものに向つてゆくことである故に。日常の經驗においても、知らない道を初めて歩く時には實際よりも遠く感じるものである。假にすべてのことが全くよく知られてゐるとしたなら、日常の通勤のやうなものはあつても本質的に旅といふべきものはないであらう。旅は未知のものに引かれてゆくことである。それだから旅には漂泊の感情が伴つてくる。旅においてはあらゆるものが既知であるといふことはあり得ないであらう。なぜなら、そこでは單に到着點或ひは結果が問題であるのでなく、むしろ過程が主要なのであるから。途中に注意してゐる者は必ず何か新しいこと、思ひ設けぬことに出會ふものである。旅は習慣的になつた生活形式から脱け出ることであり、かやうにして我々は多かれ少かれ新しくなつた眼をもつて物を見ることができるやうになつてをり、そのためにまた我々は物において多かれ少かれ新しいものを發見することができるやうになつてゐる。平生見慣れたものも旅においては目新しく感じられるのがつねである。旅の利益は單に全く見たことのない物を初めて見ることにあるのでなく、――全く新しいといひ得るものが世の中にあるであらうか――むしろ平素自明のもの、既知のもののやうに考へてゐたものに驚異を感じ、新たに見
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