希望といふものは希望でなく、却つて期待といふ如きものである。個々の内容の希望は失はれることが多いであらう。しかも決して失はれることのないものが本來の希望なのである。
 たとへば失戀とは愛してゐないことであるか。もし彼或ひは彼女がもはや全く愛してゐないとすれば、彼或ひは彼女はもはや失戀の状態にあるのでなく既に他の状態に移つてゐるのである。失望についても同じやうに考へることができるであらう。また實際、愛と希望との間には密接な關係がある。希望は愛によつて生じ、愛は希望によつて育てられる。
 愛もまた運命ではないか。運命が必然として自己の力を現はすとき、愛も必然に縛られなければならぬ。かやうな運命から解放されるためには愛は希望と結び附かなければならない。

 希望といふものは生命の形成力以外の何物であるか。我々は生きてゐる限り希望を持つてゐるといふのは、生きることが形成することであるためである。希望は生命の形成力であり、我々の存在は希望によつて完成に達する。生命の形成力が希望であるといふのは、この形成が無からの形成といふ意味をもつてゐることに依るであらう。運命とはそのやうな無ではないのか。希望はそこから出てくるイデー的な力である。希望といふものは人間の存在の形而上學的本質を顯はすものである。

 希望に生きる者はつねに若い。いな生命そのものが本質的に若さを意味してゐる。

 愛は私にあるのでも相手にあるのでもなく、いはばその間にある。間にあるといふのは二人のいづれよりもまたその關係よりも根源的なものであるといふことである。それは二人が愛するときいはば第三のもの即ち二人の間の出來事として自覺される。しかもこの第三のものは全體的に二人のいづれの一人のものでもある。希望にもこれに似たところがあるであらう。希望は私から生ずるのでなく、しかも全く私の内部のものである。眞の希望は絶望から生じるといはれるのは、まさにそのこと即ち希望が自己から生じるものでないことを意味してゐる。絶望とは自己を抛棄することであるから。

 絶望において自己を捨てることができず、希望において自己を持つことができぬといふこと、それは近代の主觀的人間にとつて特徴的な状態である。

 自分の持つてゐるものは失ふことのできないものであるといふのが人格主義の根本の論理である。しかしむしろその逆でなければならぬ。自分に依るのでなくどこまでも他から與へられるものである故に私はそれを失ふことができないのである。近代の人格主義は主觀主義となることによつて解體しなければならなかつた。

 希望と現實とを混同してはならぬといはれる。たしかにその通りである。だが希望は不確かなものであるか。希望はつねに人生といふものほどの確かさは持つてゐる。
 もし一切が保證されてゐるならば希望といふものはないであらう。しかし人間はつねにそれほど確實なものを求めてゐるであらうか。あらゆる事柄に對して保證されることを欲する人間――ひとは戰爭に對してさへ保險會社を設立する――も、賭に熱中する。言ひ換へると、彼は發明された偶然、強ひて作られた運命に心を碎かうとするのである。恐怖或ひは不安によつて希望を刺戟しようとするのである。[#「である。」は底本では「である」]
 希望の確實性はイマジネーションの確實性と同じ性質のものである。生成するものの論理は固形體の論理とは異つてゐる。

 人生問題の解決の鍵は確實性の新しい基準を發見することにあるやうに思はれる。

 希望が無限定なものであるかのやうに感じられるのは、それが限定する力そのものであるためである。
 スピノザのいつたやうに、あらゆる限定は否定である。斷念することをほんとに知つてゐる者のみがほんとに希望することができる。何物も斷念することを欲しない者は眞の希望を持つこともできぬ。
 形成は斷念であるといふことがゲーテの達した深い形而上學的智慧であつた。それは藝術的制作についてのみいはれることではない。それは人生の智慧である。
[#改ページ]

    旅について

 ひとはさまざまの理由から旅に上るであらう。或る者は商用のために、他の者は視察のために、更に他の者は休養のために、また或る一人は親戚の不幸を見舞ふために、そして他の一人は友人の結婚を祝ふために、といふやうに。人生がさまざまであるやうに、旅もさまざまである。しかしながら、どのやうな理由から旅に出るにしても、すべての旅には旅としての共通の感情がある。一泊の旅に出る者にも、一年の旅に出る者にも、旅には相似た感懷がある。恰も、人生はさまざまであるにしても、短い一生の者にも、長い一生の者にも、すべての人生には人生としての共通の感情があるやうに。
 旅に出ることは日常の生活環境を脱けることであり、平生の習慣的な關係か
前へ 次へ
全37ページ中31ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
三木 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング