る。しかもこの關係は掴むことのできぬ偶然の集合である。我々の存在は無數の眼に見えぬ偶然の絲によつて何處とも知れぬ處に繋がれてゐる。
噂は評判として一つの批評であるといふが、その批評には如何なる基準もなく、もしくは無數の偶然的な基準があり、從つて本來なんら批評でなく、極めて不安定で不確定である。しかもこの不安定で不確定なものが、我々の社會的に存在する一つの最も重要な形式なのである。
評判を批評の如く受取り、これと眞面目に對質しようとすることは、無駄である。いつたい誰を相手にしようといふのか。相手は何處にもゐない、もしくは到る處にゐる。しかも我々はこの對質することができないものと絶えず對質させられてゐるのである。
噂は誰のものでもない、噂されてゐる當人のものでさへない。噂は社會的なものであるにしても、嚴密にいふと、社會のものでもない。この實體のないものは、誰もそれを信じないとしながら、誰もそれを信じてゐる。噂は原初的な形式におけるフィクションである。
噂はあらゆる情念から出てくる。嫉妬から、猜疑心から、競爭心から、好奇心から、等々。噂はかかるものでありながら噂として存在するに至つてはもはや情念的なものでなくて觀念的なものである。――熱情をもつて語られた噂は噂として受取られないであらう。――そこにいはば第一次の觀念化作用がある。第二次の觀念化作用は噂から神話への轉化において行はれる。神話は高次のフィクションである。
あらゆる噂の根源が不安であるといふのは眞理を含んでゐる。ひとは自己の不安から噂を作り、受取り、また傳へる。不安は情念の中の一つの情念でなく、むしろあらゆる情念を動かすもの、情念の情念ともいふべく、從つてまた情念を超えたものである。不安と虚無とが一つに考へられるのもこれに依つてである。虚無から生れたものとして噂はフィクションである。
噂は過去も未來も知らない。噂は本質的に現在のものである。この浮動的なものに我々が次から次へ移し入れる情念や合理化による加工はそれを神話化してゆく結果になる。だから噂は永續するに從つて神話に變つてゆく。その噂がどのやうなものであらうと、我々は噂されることによつて滅びることはない。噂をいつまでも噂にとどめておくことができるほど賢明に無關心で冷靜であり得る人間は少いから。
噂には誰も責任者といふものがない。その責
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