家は存在しない。瞑想は彼にヴィジョンを與へるものであり、ヴィジョンをもたぬ如何なる眞の思想も存在しないからである。眞に創造的な思想家はつねにイメージを踏まへて嚴しい思索に集中してゐるものである。

 勤勉は思想家の主要な徳である。それによつて思想家といはゆる瞑想家或ひは夢想家とが區別される。もちろんひとは勤勉だけで思想家になることはできぬ。そこには瞑想が與へられねばならないから。しかし眞の思想家はまた絶えず瞑想の誘惑と戰つてゐる。

 ひとは書きながら、もしくは書くことによつて思索することができる。しかし瞑想はさうではない。瞑想はいはば精神の休日である。そして精神には仕事と同樣、閑暇が必要である。餘りに多く書くことも全く書かぬことも共に精神にとつて有害である。

 哲學的文章におけるパウゼといふものは瞑想である。思想のスタイルは主として瞑想的なものに依存してゐる。瞑想がリヅムであるとすれば、思索はタクトである。

 瞑想の甘さのうちには多かれ少かれつねにエロス的なものがある。

 思索が瞑想においてあることは、精神が身體においてあるのと同樣である。

 瞑想は思想的人間のいはば原罪である。瞑想のうちに、從つてまたミスティシズムのうちに救濟があると考へることは、異端である。宗教的人間にとつてと同樣に、思想的人間にとつても、救濟は本來ただ言葉において與へられる。
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    噂について

 噂は不安定なもの、不確定なものである。しかも自分では手の下しやうもないものである。我々はこの不安定なもの、不確定なものに取り卷かれながら生きてゆくのほかない。
 しからば噂は我々にとつて運命の如きものであらうか。それは運命であるにしては餘りに偶然的なものである。しかもこの偶然的なものは時として運命よりも強く我々の存在を決定するのである。
 もしもそれが運命であるなら、我々はそれを愛しなければならぬ。またもしそれが運命であるなら、我々はそれを開拓しなければならぬ。だが噂は運命ではない。それを運命の如く愛したり開拓したりしようとするのは馬鹿げたことである。我々の少しも拘泥してはならぬこのものが、我々の運命をさへ決定するといふのは如何なることであらうか。

 噂はつねに我々の遠くにある。我々はその存在をさへ知らないことが多い。この遠いものが我々にかくも密接に關係してくるのであ
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