主義者は型としては明瞭であるが個性ではない。
 古代においては、個人意識は發達してゐなかつたが、それだけに型的な人間が個性的であるといふことがあつた。個人意識の發達した現代においては却つて、型的な人間は量的な平均的な人間であつて個性的でないといふことが生じた。現代文化の悲劇、或ひはむしろ喜劇は、型と個性との分離にある。そこに個性としては型的な強さがなく、型としては個性的な鮮かさのない人間が出來たのである。

 成功のモラルはオプティミズムに支へられてゐる。それが人生に對する意義は主としてこのオプティミズムの意義である。オプティミズムの根柢には合理主義或ひは主知主義がなければならぬ。しかるにオプティミズムがこの方向に洗煉された場合、なほ何等か成功主義といふものが殘り得るであらうか。
 成功主義者が非合理主義者である場合、彼は恐るべきである。

 近代的な冒險心と、合理主義と、オプティミズムと、進歩の觀念との混合から生れた最高のものは企業家的精神である。古代の人間理想が賢者であり、中世のそれが聖者であつたやうに、近代のそれは企業家であるといひ得るであらう。少くともそのやうに考へらるべき多くの理由がある。しかるにそれが一般にはそのやうに純粹に把握されなかつたのは近代の拜金主義の結果である。

 もしひとがいくらかの權力を持つてゐるとしたら、成功主義者ほど御し易いものはないであらう。部下を御してゆく手近かな道は、彼等に立身出世のイデオロギーを吹き込むことである。

 私は今ニーチェのモラルの根本が成功主義に對する極端な反感にあつたことを知るのである。
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    瞑想について

 たとへば人と對談してゐる最中に私は突然默り込むことがある。そんな時、私は瞑想に訪問されたのである。瞑想はつねに不意の客である。私はそれを招くのでなく、また招くこともできない。しかしそれの來るときにはあらゆるものにも拘らず來るのである。「これから瞑想しよう」などといふことはおよそ愚にも附かぬことだ。私の爲し得ることはせいぜいこの不意の客に對して常に準備をしておくことである。

 思索は下から昇つてゆくものであるとすれば、瞑想は上から降りてくるものである。それは或る天與の性質をもつてゐる。そこに瞑想とミスティシズムとの最も深い結び附きがある。瞑想は多かれ少かれミスティックなものである。

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