文獻を見るたびにつねに考へさせられるのはこれである。なんといふ恐しい思想であらう。またなんといふ深い思想であらう。
神の怒はいつ現はれるのであるか、――正義の蹂躪された時である。怒の神は正義の神である。
神の怒はいかに現はれるのであるか、――天變地異においてであるか、豫言者の怒においてであるか、それとも大衆の怒においてであるか。神の怒を思へ!
しかし正義とは何か。怒る神は隱れたる神である。正義の法則と考へられるやうになつたとき、人間にとつて神の怒は忘れられてしまつた。怒は啓示の一つの形式である。怒る神は法則の神ではない。
怒る神にはデモーニッシュなところがなければならぬ。神はもとデモーニッシュであつたのである。しかるに今では神は人間的にされてゐる、デーモンもまた人間的なものにされてゐる。ヒューマニズムといふのは怒を知らないことであらうか。さうだとしたなら、今日ヒューマニズムにどれほどの意味があるであらうか。
愛の神は人間を人間的にした。それが愛の意味である。しかるに世界が人間的に、餘りに人間的になつたとき必要なのは怒であり、神の怒を知ることである。
今日、愛については誰も語つてゐる。誰が怒について眞劍に語らうとするのであるか。怒の意味を忘れてただ愛についてのみ語るといふことは今日の人間が無性格であるといふことのしるしである。
切に義人を思ふ。義人とは何か、――怒ることを知れる者である。
今日、怒の倫理的意味ほど多く忘れられてゐるものはない。怒はただ避くべきものであるかのやうに考へられてゐる。しかしながら、もし何物かがあらゆる場合に避くべきであるとすれば、それは憎みであつて怒ではない。憎みも怒から直接に發した場合には意味をもつことができる、つまり怒は憎みの倫理性を基礎附け得るやうなものである。怒と憎みとは本質的に異るにも拘らず極めてしばしば混同されてゐる、――怒の意味が忘れられてゐる證據であるといへよう。
怒はより深いものである。怒は憎みの直接の原因となることができるのに反し、憎みはただ附帶的にしか怒の原因となることができぬ。
すべての怒は突發的である。そのことは怒の純粹性或ひは單純性を示してゐる。しかるに憎みは殆どすべて習慣的なものであり、習慣的に永續する憎みのみが憎みと考へられるほどである。憎みの習慣性がその自然性を現はすとすれば、怒の突
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