ティズムの落ちてゆく教養のデカダンスである。
懷疑が方法であることを理解した者であつて初めて獨斷もまた方法であることを理解し得る。前のことを先づ理解しないで、後のことをのみ主張する者があるとしたら、彼は未だ方法の何物であるかを理解しないものである。
懷疑は一つの所に止まるといふのは間違つてゐる。精神の習慣性を破るものが懷疑である。精神が習慣的になるといふことは精神のうちに自然が流れ込んでゐることを意味してゐる。懷疑は精神のオートマティズムを破るものとして既に自然に對する知性の勝利を現はしてゐる。不確實なものが根源であり、確實なものは目的である。すべて確實なものは形成されたものであり、結果であつて、端初としての原理は不確實なものである。懷疑は根源への關係附けであり、獨斷は目的への關係附けである。理論家が懷疑的であるのに對して實踐家は獨斷的であり、動機論者が懷疑家であるのに對して結果論者は獨斷家であるといふのがつねであることは、これに依るのである。しかし獨斷も懷疑も共に方法であるべきことを理解しなければならぬ。
肯定が否定においてあるやうに、物質が精神においてあるやうに、獨斷は懷疑においてある。
すべての懷疑にも拘らず人生は確實なものである。なぜなら、人生は形成作用である故に、單に在るものでなく、作られるものである故に。
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習慣について
人生において或る意味では習慣がすべてである。といふのはつまり、あらゆる生命あるものは形をもつてゐる、生命とは形であるといふことができる、しかるに習慣はそれによつて行爲に形が出來てくるものである。もちろん習慣は單に空間的な形ではない。單に空間的な形は死んだものである。習慣はこれに反して生きた形であり、かやうなものとして單に空間的なものでなく、空間的であると同時に時間的、時間的であると同時に空間的なもの、即ち辯證法的な形である。時間的に動いてゆくものが同時に空間的に止まつてゐるといふところに生命的な形が出來てくる。習慣は機械的なものでなくてどこまでも生命的なものである。それは形を作るといふ生命に内的な本質的な作用に屬してゐる。
普通に習慣は同じ行爲を反覆することによつて生ずると考へられてゐる。けれども嚴密にいふと、人間の行爲において全く同一のものはないであらう。個々の行爲にはつねに偶然的なところ
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