間ではない。彼が他の人に滲透する力はむしろその一半を彼のうちになほ生きてゐる懷疑に負うてゐる。少くとも、さうでないやうな宗教家は思想家とはいはれないであらう。

 自分では疑ひながら發表した意見が他人によつて自分の疑つてゐないもののやうに信じられる場合がある。そのやうな場合には遂に自分でもその意見を信じるやうになるものである。信仰の根源は他者にある。それは宗教の場合でもさうであつて、宗教家は自分の信仰の根源は神にあるといつてゐる。

 懷疑といふものは散文でしか表はすことのできないものである。そのことは懷疑の性質を示すと共に、逆に散文の固有の面白さ、またその難かしさがどこにあるかを示してゐる。

 眞の懷疑家は論理を追求する。しかるに獨斷家は全く論證しないか、ただ形式的に論證するのみである。獨斷家は甚だしばしば敗北主義者、知性の敗北主義者である。彼は外見に現はれるほど決して強くはない、彼は他人に對しても自己に對しても強がらねばならぬ必要を感じるほど弱いのである。
 ひとは敗北主義から獨斷家になる。またひとは絶望から獨斷家になる。絶望と懷疑とは同じでない。ただ知性の加はる場合にのみ絶望は懷疑に變り得るのであるが、これは想像されるやうに容易なことではない。

 純粹に懷疑に止まることは困難である。ひとが懷疑し始めるや否や、情念が彼を捕へるために待つてゐる。だから眞の懷疑は青春のものでなく、むしろ既に精神の成熟を示すものである。青春の懷疑は絶えず感傷に伴はれ、感傷に變つてゆく。

 懷疑には節度がなければならず、節度のある懷疑のみが眞に懷疑の名に價するといふことは、懷疑が方法であることを意味してゐる。懷疑が方法であることはデカルトによつて確認された眞理である。デカルトの懷疑は一見考へられるやうに極端なものでなく、つねに注意深く節度を守つてゐる。この點においても彼はヒューマニストであつた。彼が方法敍説第三部における道徳論を暫定的な或ひは一時しのぎのものと稱したことは極めて特徴的である。
 方法についての熟達は教養のうち最も重要なものであるが、懷疑において節度があるといふことよりも決定的な教養のしるしを私は知らない。しかるに世の中にはもはや懷疑する力を失つてしまつた教養人、或ひはいちど懷疑的になるともはや何等方法的に考へることのできぬ教養人が多いのである。いづれもディレッタン
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