直すところにある。我々の日常の生活は行動的であつて到着點或ひは結果にのみ關心し、その他のもの、途中のもの、過程は、既知のものの如く前提されてゐる。毎日習慣的に通勤してゐる者は、その日家を出て事務所に來るまでの間に、彼が何を爲し、何に會つたかを恐らく想ひ起すことができないであらう。しかるに旅においては我々は純粹に觀想的になることができる。旅する者は爲す者でなくて見る人である。かやうに純粹に觀想的になることによつて、平生既知のもの、自明のものと前提してゐたものに對して我々は新たに驚異を覺え、或ひは好奇心を感じる。旅が經驗であり、教育であるのも、これに依るのである。
 人生は旅、とはよくいはれることである。芭蕉の奧の細道の有名な句を引くまでもなく、これは誰にも一再ならず迫つてくる實感であらう。人生について我々が抱く感情は、我々が旅において持つ感情と相通ずるものがある。それは何故であらうか。
 何處から何處へ、といふことは、人生の根本問題である。我々は何處から來たのであるか、そして何處へ行くのであるか。これがつねに人生の根本的な謎である。さうである限り、人生が旅の如く感じられることは我々の人生感情として變ることがないであらう。いつたい人生において、我々は何處へ行くのであるか。我々はそれを知らない。人生は未知のものへの漂泊である。我々の行き着く處は死であるといはれるであらう。それにしても死が何であるかは、誰も明瞭に答へることのできぬものである。何處へ行くかといふ問は、飜つて、何處から來たかと問はせるであらう。過去に對する配慮は未來に對する配慮から生じるのである。漂泊の旅にはつねにさだかに捉へ難いノスタルヂヤが伴つてゐる。人生は遠い、しかも人生はあわただしい。人生の行路は遠くて、しかも近い。死は刻々に我々の足もとにあるのであるから。しかもかくの如き人生において人間は夢みることをやめないであらう。我々は我々の想像に從つて人生を生きてゐる。人は誰でも多かれ少かれユートピアンである。旅は人生の姿である。旅において我々は日常的なものから離れ、そして純粹に觀想的になることによつて、平生は何か自明のもの、既知のものの如く前提されてゐた人生に對して新たな感情を持つのである。旅は我々に人生を味はさせる。あの遠さの感情も、あの近さの感情も、あの運動の感情も、私はそれらが客觀的な遠さや近さや運動に
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