らそこに漂泊の感情が湧いてくる。漂泊の感情は單に遠さの感情ではない。遠くて、しかもあわただしいところから、我々は漂泊を感じるのである。遠いと定まつてゐるものなら、何故にあわただしくする必要があるであらうか。それは遠いものでなくて近いものであるかも知れない。いな、旅はつねに遠くて同時につねに近いものである。そしてこれは旅が過程であるといふことを意味するであらう。旅は過程である故に漂泊である。出發點が旅であるのではない、到着點が旅であるのでもない、旅は絶えず過程である。ただ目的地に着くことをのみ問題にして、途中を味ふことができない者は、旅の眞の面白さを知らぬものといはれるのである。日常の生活において我々はつねに主として到達點を、結果をのみ問題にしてゐる、これが行動とか實踐とかいふものの本性である。しかるに旅は本質的に觀想的である。旅において我々はつねに見る人である。平生の實踐的生活から脱け出して純粹に觀想的になり得るといふことが旅の特色である。旅が人生に對して有する意義もそこから考へることができるであらう。
 何故に旅は遠いものであるか。未知のものに向つてゆくことである故に。日常の經驗においても、知らない道を初めて歩く時には實際よりも遠く感じるものである。假にすべてのことが全くよく知られてゐるとしたなら、日常の通勤のやうなものはあつても本質的に旅といふべきものはないであらう。旅は未知のものに引かれてゆくことである。それだから旅には漂泊の感情が伴つてくる。旅においてはあらゆるものが既知であるといふことはあり得ないであらう。なぜなら、そこでは單に到着點或ひは結果が問題であるのでなく、むしろ過程が主要なのであるから。途中に注意してゐる者は必ず何か新しいこと、思ひ設けぬことに出會ふものである。旅は習慣的になつた生活形式から脱け出ることであり、かやうにして我々は多かれ少かれ新しくなつた眼をもつて物を見ることができるやうになつてをり、そのためにまた我々は物において多かれ少かれ新しいものを發見することができるやうになつてゐる。平生見慣れたものも旅においては目新しく感じられるのがつねである。旅の利益は單に全く見たことのない物を初めて見ることにあるのでなく、――全く新しいといひ得るものが世の中にあるであらうか――むしろ平素自明のもの、既知のもののやうに考へてゐたものに驚異を感じ、新たに見
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