。かかる転換をなしおわることによって普遍性もまた真の普遍性になるのである。今や特殊性に転換した普遍性は現実的に普遍性を獲得してゆく。教をみずから信じた自己は人を教えて信じさせる。いわゆる自信教人信の過程において十方衆生の普遍性が実現されてゆく。このとき十方衆生はもはや類概念のごとき抽象的な普遍ではなく、自己のうちに特殊性をそのままに含む具体的な普遍となる。それは同朋同行によって地上に建設されてゆく仏国にほかならない。
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『末燈鈔』に収められた慶信の師親鸞への消息の中には、「摂取不捨も信も念仏も、人のためとおぼえられず候」とある。
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「我が歳きはまりて安養浄土に還帰すといふとも、和歌の浦曲の片雄波よせかけよせかけ帰らんに同じ。一人居て喜ばば二人と思ふべし。二人居て喜ばば三人と思ふべし。その一人は親鸞なり。
 われなくも法は尽きまじ和歌の浦
   あをくさ人のあらんかぎりは。」
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といわゆる『御臨末御書』の中には親鸞の遺言として伝えられている。「親鸞一人」のためのものと思われた救済の教は、救済の
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