。釈迦の「出世の大事」は限りない慈愛をもって衆生を救わんがために弥陀の慈悲の教を説くためであったのである。この教のみが真実の教である。「如来興世の正説」である。しかもこの絶対的真理の開示は我々において歴史的なものとして受取られなければならぬ。「如来、無蓋の大悲をもて三界を矜哀《きょうあい》したまふ。世に出興するゆゑは、道教を光闡《こうせん》して群萌をすくひ、めぐむに真実の利をもてせんとおぼしてなり。無量億劫にもまうあひがたく、みたてまつりがたきこと、なをし霊瑞華のときありてときにいましいづるがごとし。」と『大量無寿経』にはいわれてある。親鸞は「如来興世の本意には 本願真実ひらきてぞ 難値難見とときたまひ猶霊瑞華としめしける」と讃詠した。弥陀の本願の教の絶対性は、それが無時間的であることを意味しない。この教は歴史的に釈迦によって開顕されたのであり、我々におけるこれが信受も歴史的に決定さるべきものである。人身を受けるということはあり難く、また仏法を聞くということはあい難い。いまこの受け難い人身を受け、この聞き難い法を聞いたとすれば、速かにこれを信受しなければならぬ。
第二に、この教の絶対
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