は時代の悪をいよいよ深く自覚することである。かくてまた自己を時代において自覚することは、自己の罪を末法の教説から、したがってまたその超越的根拠から理解することであり、かくして自己の罪をいよいよ深く自覚することである。いかにしても罪の離れ難いことを考えれば考えるほど、その罪が決してかりそめのものでなく、何か超越的な根拠を有することを思わずにはいられない。この超越的根拠を示すものが末法の思想である。
 諸種の経文は末世においては正法が滅んで戒を持するものがないことを述べている。すでに正法が滅び、戒法がなくなっている以上、この時代にはもはや「破戒」ということすらない。なぜなら戒法があって破戒ということがあるのであって、破るべき戒法がなければ破戒のあろうはずはないのである。したがってこの時代の特徴は破戒ではなく、まして持戒ではなく、かえって「無戒」である。『末法燈明記』には次のごとくいわれている。「しかればすなはち末法のなかにおいては、ただ言教のみありて、しかも行証なけん。もし戒法あらば破戒あるべし。すでに戒法なし、いづれの戒を破るによりてか、しかも破戒あらんや。破戒なほなし、いかにいはんや持
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