の歴史観はもと時を隔てるにつれて釈迦如来の感化力が次第に衰えてゆくことを示すものであろうが、この過程は教行証の三法を原理とする時代区分として理論化された。仏滅後の初めの時代には教と行と証とがともに存在する。教法は世にあり、教をうける者はよく修行し、修行するものはよく証果を得る。これを正法と名づける。正とはなお証のごとしといわれ、証があるということが第一の時代の特色である。次に像法というのは、像とは似なりといわれ、この時代には教があり、行があって、正法の時に似ている。教法は世にとどまり、教をうける者は能く修行するが、しかし多くは証果を得ることができない。教行は存するが、証は存しない。これを像法と名づける。第三の末法の時においては、教法は世に垂れ、教をうける者が存しても、よく修行することができず、証果を得ることができない。ただ教のみあって、行も証もともになくなる。末とは微なりといわれ、教があってもないごとくであるから、末法と称せられるのである。これら三時を過ぎて教法すらない時期は「法滅」と呼ばれている。かくのごとく正像末の思想は教行証の三法を根拠として時代の推移を考える歴史観であることが知
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