を信じない者は、自己の幸不幸を天や鬼神の星辰の力によるものと考え、かくして天を拝したり、鬼を祠《まつ》ったり、星を占ったりする。しかし彼らははたして真に超越的なものに帰依しているのであろうか。彼らが天や鬼神を畏れるのは自己のこの世における感性的な幸福を求めるためである。彼らは我愛、我慢のこころを離れず、我に執著している。『起信論』には「外道の所有の三昧は、みな見愛我慢の心をはなれず」といっている*。かくして迷信の根拠は我愛、我慢のこころであり、我を超越した天や鬼を拝している者は実は我を拝しているのである。それらの天神や鬼神が擬人的に表象されるのも当然である。
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*『倶舎論』には、「衆人、所逼を怖れて多く諸仙の園苑、および叢林、孤樹、制多等に帰依す」とあるが、迷信の起原は我々の生の「所逼」、災害、無常等の生の窮迫を怖れて、現在の欲楽を求めるところから邪神淫祠が生ずるのである。
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偶像崇拝や庶物崇拝は人間が人間以下の邪神や自然物の奴隷となることであり、全くの邪道である。かような邪道が盛んになるということも末法時の悲しさである。『首楞厳経』にいう、「わが滅度ののち、末法のなかに、この魔民おほからん、この鬼神おほからん、この妖邪おほからん。世間に熾盛にして、善知識と称して、もろもろの衆生をして愛見の坑におとさしめん。菩提の路を失し、眩惑無識にして、おそらくは心を失せしめん。所過のところに、その家耗散して、愛見の魔となりて、如来の種を失せん。」
ところで親鸞は拝天、祠鬼、占星等の迷信について論ずるに当り、特に『弁正論』を引いて、道家の思想を批判している。道家の思想は多く迷信を生ぜしめたからである。これに対して右の『論語』からの引用は鬼神に事《つか》えることの非なるを述べたものであり、親鸞が儒教のヒューマニズムを重んじたことが知られる。
仏教と外教とはどこまでも区別されねばならぬ。道家のごときは虚無恬淡を説いて一見仏教の根本思想と等しいようであるが、これに対して親鸞は『弁正論』を引いて批判を加えている。儒教の説くところは正しいにしても、「ただこれ世間の善」に過ぎない。仏教は絶対的である。この絶対的真理に対してその余の教はすべて邪教である。『涅槃経』には道に九十六種があって、ただ仏の一道のみが正道であり、他の九十五種はみな外道で
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