問う。子いわく、いまだ人につかうることあたわず、いずくんぞよく鬼につかえん。」と読ませ、まだ人間に対してさえつかえることのできない者がどうして鬼神につかえることができようかという意味に解せられる。しかるに親鸞は後の「鬼」とあるのを「鬼神」とし、「未能」の二字を「不能」と改めた上、「未能事人。焉能事鬼。」を「不能事。人焉能事鬼神」と読みかえさせている。これによって、季路が鬼神につかうべきであるかと尋ねたのに対し、孔子は、つかえることができない、人間は鬼神以上のものであるから、人間より低い鬼神につかえ得るはずのものではないと答えた、と解するのである。この引用に先立って彼は種々の文を挙げて鬼神を貶《おと》しめているのである。彼は当時の仏教がこの世の吉凶禍福に心を迷わし、卜占祭祀を事とし、迷信邪教に陥っていることに対して鋭い批判を向けた。『愚禿悲歎述懐』には「五濁増のしるしには この世の道俗ことごとく 外儀は仏教のすがたにて 内心外道を帰敬せり」といい、また「かなしきかなやこのごろの 和国の道俗みなともに 仏教の威儀をもととして 天地の鬼神を尊敬す」といっている。そこで親鸞は諸経典を根拠として真実の教と虚偽の教とを分別し決著して外教邪偽の異執を教誡する。『涅槃経』には「仏に帰依せん者はつゐにまたその余のもろもろの天神に帰依せざれ」といい、『般舟三昧経』には「みづから仏に帰命し、法に帰命し、比丘僧に帰命せよ。余道につかふることをえざれ、天を拝することをえざれ、鬼神をまつることをえざれ、吉良日をみることをえざれ。」といって、仏教徒の帰依すべきはただ仏と法と僧との三宝であり、もっぱら仏道につかえて、天を拝したり、鬼神をまつったり、日の吉凶を卜したりするがごときことをしてはならぬと教えている。かかる迷信は仏教の否定するところである。念仏者は鬼神を畏れることを要しない。「念仏者は無礙の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には天神地祇も敬伏し、魔界外道も障礙することなし。罪悪も業報も感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆへに、無礙の一道なりと云々」と『歎異鈔』には記されている。迷信は何によって生ずるのであるか。『華厳経』には「占相をはなれて、正見を修習せしめ、決定してふかく罪福の因縁を信ずべし。」とある。迷信の生ずるのは正見を欠き、罪福の因縁を信じない故である。罪福の因縁
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